サラリーマンの頃は「会社に行きたくない・・・」や「早く休みが来て欲しい・・・」と思っていたので懐かしいものです。
そのように感じる時は、実際に会社で仕事をしている時よりも家に居る時が多かったように思うのですが、何故そうなるのか疑問になりました。
仕事は全般的に楽しかった
このブログでも何度か記載してきたのですが、サラリーマン時代の仕事はそれなりに楽しいものでした。45歳で辞めてしまいましたが、順調なサラリーマン生活を過ごせたと思います。
しかし、「会社に行きたくない・・・」や「早く休みが来て欲しい・・・」と感じることも事実なので矛盾しているように思えます。
何がそんなに嫌だったのか、サラリーマン時代は深く考えたことは無かったのですが、リタイアしてみると疑問に感じてくるものです。
参考ブログ:今の仕事が楽しくないので転職する人が多いのか
抽象的な概念として嫌なものになっているのか
少しだけ嫌なものが多く組み合わさり、全体として大きな嫌なものと感じているという説があります。
朝起きるのが嫌、満員電車に乗るのが嫌、面倒な仕事をするのが嫌、やりたくない仕事をするのが嫌・・・・といった感じに、大人であれば普通に我慢すべきことが組み合わさって得体の知れない大きな嫌なものになっているというものです。
本当は1つ1つについては大して嫌では無いのですが、全体とすれば概念的に嫌なものと認識します。
これからやらなくてはならない1つ1つのことを具体的に想像し、意外と嫌なものではないと整理すれば、それほど会社は嫌なものでは無くなるのでしょうか。
本当はとても嫌なことを我慢しているのか
毎日が苦痛であっても、それが当たり前と感じていれば、その苦痛は麻痺して感じにくくなるようです。
サラリーマンは給料を得るために役務を提供するものなので、ある程度の苦痛は我慢することになりますが、時間が経てばその苦痛にも慣れてきます。
仕事を始めれば会社という仕組みの中で、妙な責任感や目標達成意識が出て頑張ってしまいます。
それを馴化と言うそうで、嫌なことを嫌と感じにくくなるのですが、週末などで会社を離れる時間が長くなった時には嫌なことが思い出されます。
本当に嫌なものを麻痺させながら何とかサラリーマンを続けているのであれば、リタイアするまで我慢するしか無いのでしょう。
無い物ねだり
サラリーマンは給料を得るために役務を提供するものなので、ある程度の苦痛は間違いなく発生していると思うのですが、それは何をしていても同じであって、サラリーマンを辞めても別の苦痛を感じることになり、無い物ねだりしているだけという考え方があります。
他の事をすればもっと良くなるはず・・・と誰でも純粋に感じると思います。
これを現実逃避と言うのですが、隣の芝生が青く見えてしまえば、今の生活が嫌になります。
もし会社に行かない生活が出来ればどれだけ幸せなのだろう・・・と。
しかし多くの場合、欲しいものを手に入れたとしても結局は満足は出来ず、また別のものが欲しくなってしまいます。
このような理由から、今の仕事に満足が出来ないので、もっと他のことをしてみたい・・・と考える人は多いように思えます。
悲観からくる失望による苦痛は大きい
サラリーマンを定年まで続ける場合、40年ぐらい続けることになります。
働かなくても生活が出来る資産を持っていなければ、逃れる事のできない定めなので、その長さに悲観してしまいます。
その悲観は失望となり会社に行くことが憂鬱になります。
連休前には自由を期待する束の間の楽しみがあるのですが、連休最終日には逃れることの出来ないが現実となって苦痛となります。
半永久的に逃れる事のできないことを楽観的に考えることが出来れば良いのですが、普通は悲観的に捉えてしまうものでしょう。
アーリーリタイアした理由
サラリーマン時代、いつも会社に行きたくないと感じたものですが、やはり今でも原因はよくわかりません。
Ranpaがアーリーリタイアした理由には色々なものがあり、どれが1つの大きな原因があるといったものでは無かったと思っています。
恐らく、サラリーマンが会社に行きたくないと感じる原因も、何か1つの大きな原因があるというより、複合的なものでしょう。
ただし、無い物ねだりをしている部分があって、会社に行かなくなれば幸せな生活がやってくると、過度に期待をする傾向にはあるはずです。
Ranpaがアーリーリタイアを経験して分かったのですが、リタイア生活は自由で幸せではありあますが、サラリーマン時代に想像したような毎日がバラ色のようなものではなく、もっと現実的なものでした。
アーリーリタイアすればサラリーマンの苦痛から解放されることは間違い無いのですが、今から思えば、サラリーマンが会社に行きたくないと感じる原因をもっと追究しても良かったようにも思えます。