上司が嫌いでも、それなり付き合えば良いのですが、部下の場合は嫌いな人がいても、他の部下と同じように接しなくてはなりませんでした。
既に部下を持つ役職ではなくなり、「もう二度と話たくない人、会社で嫌な人物とは・・・」に記載したように、嫌いな人を避けた生活が出来るようになりました。
仕事をしないことによる効率化
会社組織で働くには、実績を上げて評価されることを目指さなくてはなりません。
営業部門であれば営業数値がすべてなので分かりやすいのですが、営業部門でなければ社内の企画力で手柄を上げることになります。
その一つはトップラインを引き上げる仕組みを構築すること、もう一つは経費を削減する仕組みを構築することです。
非生産的な仕事に巻き込まれれば、トップラインの引き上げをする前向きな仕事にとりかかれず、経費ばかり増えます。
しかし、会社には面倒で非生産的な仕事は多く発生するもので、なるべくそれらの仕事に関わらないことで効率的になるものです。
部門間での仕事の押し付け合い
A部門:「この業務は、本来B部門の担当でしょう。」
B部門:「いや、その業務は既にA部門がやっているから、今後もAでしょう。」
サラリーマンをして、このような議論は何度も繰り返し行なってきました。
明らかに自部門でしなくてはならない仕事や、簡単に手柄となる仕事は受け入れるが、面倒で部門が跨る仕事はこのようなやりとりとなります。
プロジェクト側とBAU側でも同じようなやりとりとなります。
他部門に仕事を押し付ければ、自部門では余計な仕事が減り、効率化になってしまいます。
アーリーリタイアをして良かったと、今になって思うこと
本社部門で長くサラリーマンをしていれば、これらは日常的なものとして、やりとりをする癖が付いてきました。
それは、道徳や倫理として良くないことであったとしても、自部門の実績を上げるためには効率的な仕事を選ぶ必要がありました。
しかしリタイア直前となれば、そのようなやりとりの醜さを改めて感じるようになってきます。
もし、サラリーマンを続けるのなら、その醜いやりとりを定年まで続けることになるのだろうかと。
自分の価値観で行動できる素晴らしさ
嫌な部下を避けずに接したり、醜い交渉をすることなど、サラリーマンはそれら我慢の対価として給与をもらう仕事です。
別に、それが嫌でアーリーリタイアを目指したものではなく、ミニマリストとしての生き方や、税金・社会保険のことや、一度きりの人生の使い方などを考えた結果ですが、リタイア直前になると自分の価値観で行動できる素晴らしさに気付くようになりました。
毎日サラリーマンをしていると、違和感を感じないことであっても、実は我慢をしていたり、我慢することに慣れてしまったものがあるはずです。
以前「リタイアする者が感じる独特な気分とは」に退職予定者が感じる周りの同僚と異なる空間にいるような気分のことを記載しましたが、サラリーマンというマインドコントロールされた空間から外れ、今は、我慢することに慣れる前の状態に戻りつつあるように感じます。